山田方谷(やまだほうこく)流改革論

山田方谷とは

改革までの略歴
1805年(文化2年)備中松山藩(現岡山県高さ獅子)で誕生。
1825年(文政8年)松山藩主板倉勝職(かつつね)に武士として取り立てられ、学問の道に進む。
1833年(天保4年)~1836年(天保7年)江戸の佐藤一斎塾で陽明学などを学ぶ。一斎塾での弟弟子に松代藩の佐久間象山がいる。
1844年(弘化元年)板倉家の養子となった勝静(かつきよ)(寛政の改革で有名な松平定信の孫)に講義を始める。
1849年(嘉永2年)藩主勝静から元締役兼吟味役(財務大臣)を命ぜられる。
1850年(嘉永3年)~1857年(安政4年)藩政改革に取り組み、貧乏板倉といわれ、石高が5万石で10万両の借金があり、毎年2万両以上の資金不足となっていた藩を、改革終了時には10万両の蓄財を有する、中国地方一の財力を持つ藩に変えた。

改革後の方谷
 改革後は、隠居生活を求めたが、方谷が築いた松山藩の財力を使い、藩主勝静は江戸幕府で役職を歴任することになり、方谷が江戸に出て勝静の補佐をすることもあった。勝静は、江戸幕府最後の筆頭老中まで上り詰めた。1867年(慶応3年)の大政奉還では、方谷がその草案を作成したと伝えられている。
 明治維新に際しては、方谷の指導のもと松山藩を無血開城させ、最小の犠牲者だけですますことができた。
 財政改革の力量を認められ、明治政府からも出府要請があったが、方谷は学問の道に戻ることを望み、閑谷(しずたに)学校の復興などにつとめた。
 1877年(明治10年)波乱に満ちた生涯を閉じた。

方谷駅

 JR西日本の伯備線(岡山県の倉敷駅から鳥取県米子市の伯耆大山駅までの路線)の備中高梁駅と新見駅の間に、方谷駅という小さな駅がある。無人の駅で、小さいというより、さびれたと言った方が相応しいかもしれない。駅の周辺に数件の家が立ち並ぶだけのほんとうに小さな駅である。
 この駅の近くに長瀬塾跡という碑が立っている。長瀬塾というのは、山田方谷が藩政改革を終え、隠居をするために設けた塾である。
 山田方谷の改革により、備中松山藩が中国地方で一番の財政力豊かな藩となり、その後の安政の飢饉などでも、餓死者が一人もでないようになった。そのため、改革後、方谷が領内を視察すると、領民は誰に指示されることがなくとも、土下座をして方谷を迎えたとも伝えられている。方谷は、領民にとっては、神様のような存在であったのかもしれない。その方谷の名前をとって駅をつくりたいというのが、領民の強い願いであった。
 ところが、国鉄(現JR)では個人の名前を駅名としないことになっていたため、国鉄側は当初領民の願いを受け入れなかった。しかし、最後には、領民の強い願いが受け入れられ、昭和3年に長瀬塾跡にこの方谷駅が完成したのである。
 JRでは、個人の名前をとった駅は、この方谷駅ただ一つである。

方谷流改革の基礎

 方谷の学問の基礎は、儒教にある。儒教の解釈にもいろいろあるが、方谷は陽明学者としても知られており、陽明学が基本といえる。財務について、方谷が江戸遊学中に書いた論文「理財論」があるが、その基礎は正に儒教であった。
 儒教の基本的なテキストとして四書というものがある。四書とは、孔子、孟子、大学、中庸の4つの書籍である。四書の一つ大学に、「財を生ずるに大道あり」という箇所がある。そこには、次のように書かれている。

 百乗の家は聚斂(しゅうれん)の臣を畜わず。聚斂の臣あらんよりは、むしろ盗臣あれ。…小人をして国家を為さしむれば、菑害(さいがい)並び至る。善者ありといえども、またこれを如何ともするなし

 この意味は、次のとおりである。
 リーダーとなる家老格の家は、下々から取り立てることしかしない家臣(聚斂の臣)を置いてはいけない。聚斂の臣を置くくらいなら、むしろ国家の財産を盗み取る盗臣のほうが被蓋は小さい。…聚斂の臣のような小人に国家の運営をさせると、天変地異や国内外の禍が次々にやってくる。そうなると、いくら素晴らしいリーダーであっても、どうしようもない。

 今、消費税率を引き上げれば日本の国家財政はなんとかできる、という聚斂の臣が闊歩している。そのような聚斂の臣は、まさに国家破綻を早めることになることしかできない。
 方谷の改革の基礎は、聚斂の臣を置かず、領民を苦しめることをしない改革をするというのが基礎であった。

至誠惻怛(しせいそくだつ)

 聚斂の臣を置かないという方谷の改革理論の基礎を表す言葉が、この至誠惻怛である。
 至誠とは、誠を尽くすことであり、心から領民の幸福を願って行動することである。次の惻も怛も、ともにいたみ悲しむという意味であり、領民への思いやりが重要であるということを意味している。
 この至誠惻怛の言葉を中心に行った方谷の改革は、領民を犠牲にすることなく、中国地方一の財力を築くことにつながった。

産業創造

 江戸時代の藩政改革で有名なのは、米沢藩の上杉鷹山である。上杉鷹山の改革の基礎は、産業の育成であった。それまであった産業の効率化や、そこから派生する産業の育成などが中心であった。そのため、15万石の藩で20万両のあった借財をゼロにするのに100年かかったのである。それでも、薩摩藩や松代藩で行った借財の踏み倒しよりは、数段すぐれた改革といういえる。
 一方、方谷の改革は、8年で終わり、10万両の借金であったものが、8年後には10万両の蓄財に変えている。鷹山は100年かかり、方谷は8年で完成できた。この違いは何であろうか。
 私は、方谷は産業創造をしたため、急速な改革ができたと考えている。
 備中松山藩では、砂鉄がとれが。刀鍛冶などがその砂鉄を利用して、家内工業で鉄製品を作っていた。方谷は、製鉄業に着目し、製鉄工場を作り、新たな産業として、本格的な鉄製品の製造・販売にとりくんだのである。そのためのインフラ整備なども積極的に行った結果、備中松山藩は急速な改善ができたのである。

人材登用

 産業を創造するには、新たな人材を必要とする。そのための教育と人材登用を方谷は積極的に行った。江戸時代は、士農工商という身分制度があったが、方谷の人材登用は、次のように士農工商の身分制度を覆すような大胆なものであった。
 また、人材を登用するには、潜在的に優秀な人材が必要となる。そのための教育制度にも手を加え、身分にかかわらず教育に積極的に取り組んだ。


山田方谷の人材登用
武士は、国防と政治を担当するべきものとされていた。しかし、幕末になっても、武士の魂は刀であることにこだわる人が多かった。
特に、下級武士は、やるべき仕事がないないよう状況であった。そのため、下級武士には、国防と称して農地開墾にあたらせることとした。
農閑期には、本格的な国防にあたらせることとし、西洋式軍隊を編成した。そのとき徴用したのが農民であった。
山田方谷が作った軍隊を、長州藩の久坂玄瑞が視察に訪れ、松山藩の軍隊をモデルにして高杉晋作に作らせたのが奇兵隊である。
製鉄業を作り上げるには、工業に関する知識や技術を有する人材が必要となる。そのため、従来は家内工業であったとはいえ、工業に関する知識や技術を有する者を取り立てた。
製品が出来上がっても、それを販売できなければ収益にはならない。松山藩では、撫育方という部局を作り、商人を取り立てて製品の販売にあたらせた。
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